Green houseを何故僕が始めたか
何故僕がgreen houseを設立したか。
僕はその問いに答えると共に今これを見ている後輩の諸君にメッセージを伝えたい。
この問に答えるには僕のこれまでの短い人生を少し振り返る必要がある。
僕は2001年のある日病室で産声を上げる。
アレルギーの双子の兄を育てた母は産まれた瞬間の僕を見て、僕が重度のアレルギーを患ってることを容易に理解した。
またその時から僕は変人だった。
産まれた瞬間泣くと思いきや、全く泣かずに真顔で看護婦の顔を凝視していたと言う。
その時から偉そうなやつだったのかと思うと辛くなる笑
検査が終わり、きっと両親は驚いただろう
僕のアレルギーは酷かった、特に食物の。
10種類以上のアレルギーを患っていた僕の食生活は非常に限られたものだった。
幼い頃から母乳は牛乳の成分を含むため飲めず、点滴のようなものを飲み育った。
そして何回かアナフィラキシーショック(アレルギーによる急性の発作のこと)を体験し、数回命の危機にも瀕したことがある。
クルミを誤食し呼吸困難に陥り、「あと5分遅ければ」と言われたこともある。
残念ながらその対応のせいでこの世に樋口がまだ居てしまう。
そんな僕も失敗も成功も繰り返して高校2年生になった。
僕は高校生2年生になった時、自分を見て何か足りないように感じた。成績でも部活でも何か違うかった。だけど僕は余りに多くの情熱と活力を持て余していたことだけ理解していた。
そして過去を振り返り、自分がここまで無事に生きているのは周りの人のお陰だなと思った。
縁というものは大切なものだと確信した。
卓球を通じて色んな人と交流ができたことが宝物だと思ったのもまたその時の回想からだった。
あの死にかけた嫌な奴の僕が生きているのは周りのおかげだから恩返しをしなければ!と思った。そうなると早かった。縁は大切だ。なら縁を作ることがしたい!卓球の大会を主催しよう!
それが今のgreen houseへと繋がる。
僕はもっともっとgreen houseを大きくしたかった。
しかし今の時期からでは遅すぎる。
僕は後輩達に伝えたい。
全て全力でやること
そして思い立ったら今すぐすること
いらねとか思ってる話とか色んな不満なとことかあるかもしれないがそんなことでも聞いてみることで見聞が幅広くなり、どこかで役に立つものだと思っている。
また思い立ったらすぐやることが僕が出来ればもっとgreen houseも発展したのにと後悔している。引退とか時間を使える時期とかには限りがある。だからこそ、チャンスはいつも今だと思って欲しい。
green houseを通じて色んな人と交流できたのは宝物だ。
またgreen houseを通じてどこかの誰かとどこかの誰かが大会で会って挨拶するようになったとかそんなことだけでも僕は本当に嬉しい。
縁を作れたんだと思って、すごく嬉しくなる。
そしてgreen houseに組織名を変えたことの理由の大きな一つは慈善団体にしたかったからだ。
病人スタートの僕が生きたのは医療がしっかりしていたからであり、医療をうけれない人がいるのも知っているしそれに対してどこか罪悪感があった。
だからgreen houseを通じて少しほんの少しでも募金とかボランティアに対してイメージが変わってくれれば、ほんの少しでも身近に感じてもらえれば、僕のした活動は報われたと言える。
green houseの運営を手伝ってくれたみんな
green houseに関わって下さった参加者を初めとした皆様
本当にありがとうございました。
僕は皆さんのおかげでとても幸せな時間を過ごせました。
深く御礼申し上げます。